「ポプコン」かつて行われていたヤマハのポピュラーミュージックコンテストの略称です。

数々のアーティストを生んだ日本の音楽史に残る伝説のコンテストはどのようなものだったのでしょうか。

その歴史やポプコン出身の意外なアーティストを辿っていきます。

私たち西村楽器とゆかりのあるアーティストもご紹介します。

ポプコンとは?

総合楽器メーカーのヤマハが音楽文化の向上と楽器の普及を目的に、アマチュアの演奏力を競う全国規模のコンテストをスタートさせました。

ポプコンの第1回大会は今から半世紀以上前の1969年に開催されました。

1960年代は世界的にポピュラーミュージックの大変革期で、「ビートルズ」や「ボブディラン」等に代表される、自分で曲を作り、自分で演奏するアーティストが次々に現れ、若い世代から熱狂的に支持されました。

その流れは当然日本にも波及し、学生を中心にアマチュアのコンサートやコンテストが各地で行われるようになり、ポプコンの他にも有名どころではイーストウエストやエルモーションなど様々なコンテストが行われていました。

ポプコンの歴史を振り返る

ヤマハはポプコンの前身である全日本ライトミュージックコンテストを1967年からロック・フォーク・作曲部門に分けて開催していました。

当時の出場者には「赤い鳥」「チューリップ」、後の「オフコース」「吉田拓郎」が在籍したバンド等の才能豊かな面々が名を連ねていました。

1969年にポプコンが始まると、全国各地の予選会を通過した者たちが全国8地区の決勝大会に進み、そこを勝ち抜いてやっと本選会への切符を獲得してグランプリを競い合いました。

そうした熾烈なグランプリ獲得レースが繰り広げられる中で、地方大会から贔屓のバンドを応援する熱が高まり、地方大会を勝ち抜いた代表を応援するツアーが組まれるなどのヒートアップ現象も生まれました。

1970年代になりシンガーソングライター系を中心に大いに盛り上がりを見せ多くの名曲も生まれました。代表的なヒット曲は後ほどご紹介いたします。

しかし次第に、TV歌番組増加等の影響なのか段々と熱がおさまり、1986年第32回大会をもって幕を降ろしました。その後は10代を対象にしたティーンズ・ミュージック・フェスティバルに役割が引き継がれました。

歴代のグランプリ受賞者

これまで日本のミュージックシーンに数々のアーティストを送り出してきたポプコンですが、ここで主なグランプリ受賞者をご紹介していきます。

まずは、1973年第6回大会のグランプリ、小坂明子の「あなた」です。

それまで全く無名の新人の曲が200万枚を超える大ヒットを記録し、世界歌謡祭のグランプリまで受賞したことは当時大きなニュースとなりました。

これ以降、ポプコンへの注目度は飛躍的に高まり、新人アーティストの登竜門とまで言われるようになり、下記のような有名アーティストのヒット曲が生まれています。

| 1975年大会グランプリ 中島みゆき「時代」

| 1977年大会グランプリ 世良公則&ツイスト「あんたのバラード」

| 1978年大会グランプリ 円広志「夢想花」

| 1979年大会グランプリ クリスタルキング「大都会」

| 1982年大会グランプリ あみん「待つわ」

等々、記憶に残る名曲が次々に生まれました。

また、グランプリ獲得は惜しくも叶いませんでしたが、現在の日本のミュージックシーンを支えるキラ星の如きアーティスト達も門を叩きました。

ざっと主なところだけでも、「吉田拓郎」「オフコース」「チューリップ」「井上陽水」「NSP」「長渕剛」「八神純子」「佐野元春」「チャゲ&飛鳥」「安全地帯」等々、本当に凄すぎる名前ばかりです!

宮崎県出身アーティストの足跡

ここまでご紹介してきたところで、ポプコンの凄さやコンテストのレベルの高さはご理解いただけたと思いますが、地元宮崎県出身、また西村楽器とご縁のあるアーティストがポプコンに挑戦して、なんとグランプリを獲得しているのです!そしてこの偉業をもっと宮崎の皆様にお伝えして語り継いでいけたらと思っています。

小坂 恭子 さん

小坂恭子さんは、1974年第7回大会「恋のささやき」でグランプリを獲得しました。

そしてプロデビュー翌年にリリースされた名曲「思い出まくら」が130万枚の大ヒットを記録しました👏。

その後も映画の主題歌や色々な企業CMを手がけたり、他のアーティストへの楽曲の提供など幅広く活動されています。

井上 清春 さん

井上清春さんは福岡の大学時代に結成したバンド”七福神”のリーダーとして1975年第9回大会本選に「わたり鳥」でエントリーし、中島みゆき、八神純子、松崎しげる、庄野真代らの強豪をおさえて見事グランプリを獲得しました。

当時グランプリを獲得するとプロデビューが約束されていたのですが、その権利を放棄してバンドを解散、故郷宮崎に戻り西村楽器で音楽普及活動に尽力されました。

現在も宮崎の音楽・芸術文化の発展、福祉活動等、精力的に活動を続けられています。特に平成9年からスタートした今年で23回目を迎える“ハート to ハート チャリティーコンサート”は、井上さんの音楽活動の原点でもあります。

障がいのある方と健常者が同じステージに立って音楽を通じて心のコミュニケーションを創る素晴らしいコンサートをこれからも応援していきたいと思います。

下成 佐登子 さん

下成佐登子さんは本選グランプリではありませんが、1978年第15回九州大会「秋の一日」でグランプリを獲得したアーティストです。この年の九州大会はかなりの激戦で、長渕剛の「巡恋歌」とW受賞でした。

その後は“ひみつのアッコちゃん”のテーマ曲をはじめ沢山のアニメやTV番組の主題歌を提供し現在もLIVE活動を継続されています。

あと余談ですが、下成さんのご主人は東京事変のベーシストであり椎名林檎や平井堅、スピッツ等のプロデューサーとしても有名な音楽家、亀田誠治氏です。

大城 光恵 さん

そして最後に1982年第24回大会グランプリ受賞曲「哀ダンサー」の楽曲提供(作詞・作曲)をした大城光恵さんです。

これがきっかけでプロデビューし「中年よ大志を抱け」や「以心伝心しよう」などのヒット曲を生み出しました

他に多くのCM曲やアーティストへの楽曲提供を手がけられ、1995年からは地元宮崎で音楽活動を続けられていましたが2023年惜しくも病のため亡くなられました。心よりご冥福をお祈りいたします。

女性アーティスト活躍の場を生んだポプコン

今では特に意識もしないことですが、ポプコンがスタートする前はバンドを組んだり、曲を作って演奏したりすることは男性がほとんどで女性はとても少ない状況でした。

音楽好きなら誰でもエントリーできるポプコンが始まり、段々と自分で作詞・作曲してエントリーする女性が増えました。回を重ねる毎に多くの女性シンガーソングライターやバンドが現れ、女性の視点で作られた多くの曲がヒットして共感を得ました。

ポプコンそのものは終了しましたが、そのコンセプトである“音楽をつくり、演奏する楽しさを分かち合おう”の精神は十分定着していると思います。

テクノロジーの進歩で音楽を取り巻く世界は大きく様変わりしていますが、性別や世代を超えて、様々な手法で音楽を楽しむ人たちがもっともっと増え続けることを希望します。

「ポプコン」かつて行われていたヤマハのポピュラーミュージックコンテストの略称です。

数々のアーティストを生んだ日本の音楽史に残る伝説のコンテストはどのようなものだったのでしょうか。

その歴史やポプコン出身の意外なアーティストを辿っていきます。

私たち西村楽器とゆかりのあるアーティストもご紹介します。

ポプコンとは?

総合楽器メーカーのヤマハが音楽文化の向上と楽器の普及を目的に、アマチュアの演奏力を競う全国規模のコンテストをスタートさせました。

ポプコンの第1回大会は今から半世紀以上前の1969年に開催されました。

1960年代は世界的にポピュラーミュージックの大変革期で、「ビートルズ」や「ボブディラン」等に代表される、自分で曲を作り、自分で演奏するアーティストが次々に現れ、若い世代から熱狂的に支持されました。

その流れは当然日本にも波及し、学生を中心にアマチュアのコンサートやコンテストが各地で行われるようになり、ポプコンの他にも有名どころではイーストウエストやエルモーションなど様々なコンテストが行われていました。

ポプコンの歴史を振り返る

ヤマハはポプコンの前身である全日本ライトミュージックコンテストを1967年からロック・フォーク・作曲部門に分けて開催していました。

当時の出場者には「赤い鳥」「チューリップ」、後の「オフコース」「吉田拓郎」が在籍したバンド等の才能豊かな面々が名を連ねていました。

1969年にポプコンが始まると、全国各地の予選会を通過した者たちが全国8地区の決勝大会に進み、そこを勝ち抜いてやっと本選会への切符を獲得してグランプリを競い合いました。

そうした熾烈なグランプリ獲得レースが繰り広げられる中で、地方大会から贔屓のバンドを応援する熱が高まり、地方大会を勝ち抜いた代表を応援するツアーが組まれるなどのヒートアップ現象も生まれました。

1970年代になりシンガーソングライター系を中心に大いに盛り上がりを見せ、多くの名曲も生まれました。代表的なヒット曲は後ほどご紹介いたします。

しかし、次第にTV歌番組増加等の影響なのか、段々と熱がおさまり1986年第32回大会をもって幕を降ろしました。その後は10代を対象にしたティーンズ・ミュージック・フェスティバルに役割が引き継がれました。

歴代のグランプリ受賞者

これまで日本のミュージックシーンに数々のアーティストを送り出してきたポプコンですが、ここで主なグランプリ受賞者をご紹介していきます。

まずは、1973年第6回大会のグランプリ、小坂明子の「あなた」です。

それまで全く無名の新人の曲が200万枚を超える大ヒットを記録し、世界歌謡祭のグランプリまで受賞したことは当時大きなニュースとなりました。

これ以降、ポプコンへの注目度は飛躍的に高まり、新人アーティストの登竜門とまで言われるようになり、下記のような有名アーティストのヒット曲が生まれています。

1975年大会グランプリ
中島みゆき「時代」

1977年大会グランプリ
世良公則&ツイスト「あんたのバラード」

1978年大会グランプリ
円広志「夢想花」

1979年大会グランプリ
クリスタルキング「大都会」

1982年大会グランプリ
あみん「待つわ」

等々、記憶に残る名曲が次々に生まれました。

また、グランプリ獲得は惜しくも叶いませんでしたが、現在の日本のミュージックシーンを支えるキラ星の如きアーティスト達も門を叩きました。

ざっと主なところだけでも、「吉田拓郎」「オフコース」「チューリップ」「井上陽水」「NSP」「長渕剛」「八神純子」「佐野元春」「チャゲ&飛鳥」「安全地帯」等々本当に凄すぎる名前ばかりです!

宮崎県出身アーティストの足跡

ここまでご紹介してきたところで、ポプコンの凄さやコンテストのレベルの高さはご理解いただけたと思いますが、地元宮崎県出身、また西村楽器とご縁のあるアーティストがポプコンに挑戦してなんとグランプリを獲得しているのです!そしてこの偉業をもっと宮崎の皆様にお伝えして語り継いで行けたらと思っています。

小坂 恭子 さん

小坂恭子さんは1974年第7回大会「恋のささやき」でグランプリを獲得しました。

そしてプロデビュー翌年にリリースされた名曲「思い出まくら」が130万枚の大ヒットを記録しました👏。

その後も映画の主題歌や色々な企業CM曲を手がけたり、他のアーティストへの楽曲の提供など幅広く活動されています。

井上 清春 さん

井上清春さんは福岡の大学時代に結成したバンド”七福神”のリーダーとして1975年第9回大会本選に「わたり鳥」でエントリーし、中島みゆき、八神純子、松崎しげる、庄野真代らの強豪をおさ得て見事グランプリを獲得しました。

当時グランプリを獲得するとプロデビューが約束されていたのですが、その権利を放棄してバンドを解散、故郷宮崎に戻り西村楽器で音楽普及活動に尽力されました。

現在も宮崎の音楽・芸術文化の発展、福祉活動等、精力的に活動を続けられています。特に平成9年からスタートした今年で23回目を迎える“ハート to ハート チャリティーコンサート”は、井上さんの音楽活動の原点でもあります。障がいのある方と健常者が同じステージに立って音楽を通じて心のコミュニケーションを創る素晴らしいコンサートをこれからも応援していきたいと思います。

下成 佐登子 さん

下成佐登子さんは本選グランプリではありませんが、1978年第15回九州大会「秋の一日」でグランプリを獲得したアーティストです。この年の九州大会はかなりの激戦で長渕剛の「巡恋歌」とW受賞でした。

その後は“ひみつのアッコちゃん”のテーマ曲をはじめ沢山のアニメやTV番組の主題歌を提供し現在もLIVE活動を継続されています。

あと余談ですが、下成さんのご主人は東京事変のベーシストであり椎名林檎や平井堅、スピッツ等のプロデューサーとしても有名な音楽家 亀田誠治氏です。

大城 光恵 さん

そして最後に、1982年第24回大会グランプリ受賞曲「哀ダンサー」の楽曲提供(作詞・作曲)をした大城光恵さんです。

これがきっかけでプロデビューし「中年よ大志を抱け」や「以心伝心しよう」などのヒット曲を生み出しました

他にも多くのCM曲やアーティストへの楽曲提供を手がけられ、1995年からは地元宮崎で音楽活動を続けられていましたが、2023年惜しくも病のため亡くなられました。心よりご冥福をお祈りいたします。

女性アーティストの活躍の場を生んだポプコン

今では特に意識もしないことですが、ポプコンがスタートする前はバンドを組んだり、曲を作って演奏したりすることは男性がほとんどで女性はとても少ない状況でした。

音楽好きなら誰でもエントリーできるポプコンが始まり、段々と自分で作詞・作曲してエントリーする女性が増えました。回を重ねる毎に多くの女性シンガーソングライターやバンドが現れ女性の視点で作られた多くの曲がヒットして共感を得ました。

ポプコンそのものは終了しましたが、そのコンセプトである“音楽をつくり、演奏する楽しさを分かち合おう”の精神は十分定着していると思います。

テクノロジーの進歩で音楽を取り巻く世界は大きく様変わりしていますが、性別や世代を超えて様々な手法で音楽を楽しむ人たちがもっともっと増え続けることを希望します。